|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ 自動 : [じどう] 1. (adj-na,n) automatic 2. self-motion ・ 自動車 : [じどうしゃ] 【名詞】 1. automobile ・ 動 : [どう] 【名詞】 1. motion 2. change 3. confusion ・ 車 : [くるま] 【名詞】 1. car 2. vehicle 3. wheel ・ カー : [かー] 【名詞】 1. car 2. (n) car
アドラー ( ''Adler'' ) は1900年から1957年までドイツに存在していた自動車とオートバイのメーカーおよびブランドである。社名の「アドラー」とは、ドイツ語で鷲を意味する。他にも自転車、タイプライターなどを製造していた。 == 歴史 == 第一次世界大戦以前にアドラーが製造していた自動車はドディオン ( '':en:De Dion-Bouton'' ) 製の2気筒または4気筒エンジンを搭載し、1032ccから9081ccまでモデルをラインナップしていたが、エドモンド・ランプラー ( '':en:Edmund Rumpler'' ) が技術部門の責任者に就任した1902年からはエンジンも自社で製造を始めた〔Lyons, Pete. "10 Best Ahead-of-Their-Time Machines", in Car and Driver, 1/88, p.73〕。これらの自動車は会社の創設者ハインリッヒ・クレイヤー ( ''Heinrich Kleyer'' ) の二人の息子であるアーウィン ( ''Erwin Kleyer'' ) とオットー ( ''Otto Kleyer'' ) 、そしてアルフレッド・シーヴス ( ''Alfred Theves'' ) のドライブで多くのスポーツ競技に参加し、勝利を収めた。 1900年からは2輪車の製造も始めており、自動車と同様に最初はドディオン製エンジンのオートバイだったが、後に自社製の単気筒エンジンとV型2気筒エンジンのモデルを造った。しかし、自動車の売れ行きが好調だったため、1907年にはオートバイの生産を中止して自動車の生産に集中するようになった〔ヒューゴ・ウィルソン『モーターサイクル名鑑』(1997年、世界文化社)ISBN 4-418-97201-3(p.234)〕。 1920年代にはカール・イリオン ( ''Karl Irion'' ) のドライブによって多くのアドラーがレースで活躍した。この時期の人気モデルは1550cc、2298cc、4700ccの4気筒モデルと、2580ccの6気筒モデルだった。1927年から1934年まで生産されたスタンダード ( ''Adler Standard'' ) は、建築家のヴァルター・グロピウスがデザインしたボディが特徴だった。スタンダードには2916ccの6気筒モデルと3887ccの8気筒モデルがあり、ヨーロッパ車として初めて油圧ディスクブレーキを採用した自動車でもあった。1927年から1929年にかけて、''Clärenore Stinnes'' がスタンダード6で初の自動車による世界一周を成し遂げた〔Michael Winter, Pferdestärken. Die Lebensliebe der Clärenore Stinnes, 2001 ISBN 978-3499235368〕。 1930年12月、アドラーはモトールクリティーク誌 ( '':en:Motor-Kritik'' ) の編集長でエンジニアでもあったヨーゼフ・ガンツ ( '':en:Josef Ganz'' ) を顧問エンジニアとして迎えた。1931年の1月にガンツはアドラーでチューブフレームのシャーシにエンジンをミッドシップ・マウントし、後輪にスイングアクスル式の独立懸架サスペンションを持つ大衆車のプロトタイプを造り始めた。5月に完成したこのプロトタイプはマイケーファ(''Maikäfer'' 、「5月のカブトムシ」の意)と呼ばれた。しかし会社の体制変更によってハンス・グスタフ・ロア ( ''Hans Gustav Röhr'' ) が技術部門の責任者となるとマイケーファの開発は中止され、アドラーは前輪駆動車の開発に集中するようになった。 1930年代には前輪駆動のトランフ ( ''Adler Trumpf'' ) とトランフ・ジュニア ( ''Adler Trumpf Junior'' ) を製造した。このシリーズは995ccから1645ccまでの4気筒SVエンジンを搭載し、ル・マン24時間などのレースにも出場して多くの成功を収めた。他にも1943ccのファボリート ( ''Adler Favorit'' )、6気筒2916ccで65馬力/3800rpmのディプロマト ( ''Diplomat'' )、4気筒1910ccと6気筒2494ccのエンジンをアンビ・バッド ( '':en:Ambi Budd'' ) とカルマンが製作したボディに載せたモデルなど(これらは全て後輪駆動だった)があった。これらのモデルは第二次世界大戦が勃発するまで生産されていた。 アドラーが最後に送り出した自動車は、1937年の2.5リッターのモデルだった。このモデルは58馬力の6気筒エンジンを搭載し、パウル・ヤーライ ( '':en:Paul Jaray'' ) がデザインした流線型のボディも相まって最高速度125km/hを誇った。 第二次世界大戦後、ドイツでは自動車の製造がほとんど許されず、アドラーも自動車を生産することはできなかったが、1949年に規制が緩和されたのを機に40年ぶりにオートバイの製造を再開すると、その後8年間に渡ってオートバイを製造した。この間、主力モデルのMB250Sをはじめとして2ストロークエンジンの中小排気量のモデルを生産していた〔。 また、連合国への戦争賠償の一環として、アドラーの一部のオートバイの設計はイギリスのBSAのものとなり、後にBSAグループのアリエルによってそれらの設計が利用されてアロー ( '':en:Ariel Arrow'' ) とリーダー ( '':en:Ariel Leader'' ) が造られた。アドラー自身が造るオートバイも2ストロークモデルの見本として高い評価を得ていたが、1950年代後半にオートバイ業界全体の不景気が深刻になり、アドラーは事業の中心を徐々にオフィス機器の製造にシフトさせていった〔『モーターサイクル名鑑』(p.12)〕。 アドラーはトライアンフと提携してトランフ・アドラー ( ''Trumpf-Adler'' ) を生産したが販売不振が続いてついにオートバイの生産を中止し、1957年に当時ヨーロッパ最大のラジオメーカーのひとつであったグルンディッヒ社 ( '':en:Grundig'' ) に買収されてオフィス機器メーカーとなり、その後オリベッティに売却された〔。 アドラーの名前を持つ自動車やオートバイは消えたが、アドラーのオートバイがイギリスや日本のオートバイメーカーに与えた影響は大きく、スズキやヤマハが初期に製作した2ストローク2気筒エンジンはアドラーのそれを手本のひとつとしている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アドラー (自動車メーカー)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|